2000.12.17より


明石元二郎


元治元年(1864)年福岡藩2千石取り、上士明石助九郎の次男として生まれた。陸軍士官学校を卒業後、外国駐在や参謀本部勤務が多く部隊指揮の経験は少なかった。語学と算術に長けていたが、服装には無頓着で整理整頓の文字は辞書に無かったらしい。物事への集中力は物凄く、話に熱中すると小便すら垂れ流して話を続けたとの逸話もある。児玉源太郎に見出され、日露戦争ではロシアを後方から撹乱すべく反ロシア帝国活動の煽動を命じた。工作費100万円(今の価値では400億円以上)をヨーロッパ全土の反帝政組織にばら撒き日本陸軍最大の謀略戦を行った。情報の収集やストライキ、サポタージュ、武力蜂起などロシア国内は明石の工作が進むにつれて不穏となり、厭戦気分が増大した。明治37年7月には反ロシア革命組織を集めて「パリ会議」開催にこぎつけ、革命の気運をさらに煽り立てた。戦後は憲兵司令官、参謀次長を歴任し台湾総督となったが大正8年脳溢血で倒れた。





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